翌朝―― 6時に起きた朱莉がキッチンへ行くと、テーブルの上に航からのメモが乗っていた。『おはよう朱莉。今朝は9時に出掛けるから、悪いけど8時まで寝かせてくれないか? よろしく』「航君何時に帰って来たのかな? でも8時なら余裕があるよね。あ、それなら!」朱莉は出掛ける準備を始めた—―8時――航が目を擦りながらキッチンにいる朱莉に声をかけてきた。「おはよう、朱莉」「おはよう、航君。ねえ、昨夜は一体何時に帰って来たの?」「う~ん……夜中の1時か? その後、シャワーを浴びて……寝たのは1時半頃だった気がするな」それを聞いた朱莉は心配そうに眉を潜めた。「ねえ……。身体の具合はどう? 疲れたり……してない?」「な、何言ってるんだ。大丈夫に決まってるだろう? 俺はまだ22だし、睡眠時間だって6時間以上取っているんだから」朱莉がそこまで自分のことを気に掛けてくれているのかと思うと、つい顔が緩みそうになり、慌てて視線を逸らせた。「そう? ならいいんだけど……。ねえ、朝ご飯、今日は家で食べれる?」「ああ。今朝は余裕があるから大丈夫だけど……」航がそこまで言いかけると、みるみる内に朱莉の顔が笑顔になる。「な、な、何でそんな嬉しそうな目で見るんだよ」思わず航の顔がカッと熱くなる。「だって……一緒に食事が出来るのが嬉しくて」朱莉はにこやかに答える。「朱莉……」(駄目だ、勘違いするな。朱莉が俺と食事をしたいのは俺に気がある訳じゃなくて、誰かと一緒に食事がしたいだけなんだから!)航は必死で自分の心に言い聞かせた。「あのね、実は今朝はご飯じゃないんだけど、いいかな?」席に着いた航に朱莉は尋ねた。「ああ、別に何でもいいぜ。俺は好き嫌いは無いから」「良かった〜。実はちょっぴりリッチな高級食パンを売っているお店が近所に出来て、今朝買って来たの」朱莉は買って来た食パンを航に見せた。「何? 朝からわざわざ買いに行って来たのか?」「うん、まだ私も一度も食べた事が無いんだけど……航君と一緒に食べたいなって思って買って来たの」「そ、そうだったのか?」(だから……勘違いさせるような事を俺に言うんじゃない!)航は朝っぱらからすっかり動揺していた。ただでさえ昨夜偶然目にした京極宛のポストカードで頭の中は一杯なのに、その上朱莉の勘違いさせるようなこの言
玄関で靴を履く航に朱莉は尋ねた。「航君の洗濯物はどうしてるの?」「洗濯……? ああ、コインランドリーで洗ってるけど?」「やっぱり……。ねえ、今も洗濯物持ち歩いているの? ひょっとしてそのリュックの中身がそうなの?」「ああ。そうだけど……?」「出して、私が洗濯するから」途端に航の顔が真っ赤に染まる。「な、な、何言ってるんだよ! 男の洗濯物をあ、洗うなんて……」「え? だって家のお母さんは家族全員の洗濯物を洗うでしょう?」「お母さん……」航は開いた口が塞がらなくなってしまった。(何だ? 朱莉は……本気でそんなこと言ってるのか?)「それに航君は……私にとって家族みたいな人だし」朱莉の言葉に航は思わず顔が熱くなった。(え? 朱莉……それってひょっとして俺のこと……?)「航君は……何だか私の弟みたいな気がして」「弟……」その言葉に航の希望はガラガラと音を立てて崩れた。「あ~もう、分かったよ。好きにしてくれよ……」航はリュックを降ろすと洗濯物が入ったレジ袋を朱莉に手渡した。「なあ……本当にこんなことまで朱莉にやらせていいのかよ?」「うん。だって一緒に今は暮してるんだから当然でしょう?」「朱莉……ありがとな」航は思わず朱莉の頭を撫でようとして……慌てて手を引っ込めた。「それじゃ行って来る。今日は……19時には帰って来れると思うから……」最後の方は小声になってしまった。「うん、行ってらっしゃい。食事用意して待ってるね」「行ってきます」航はドアを閉めると、顔を真っ赤に染めた。(何だよ、この会話……まるで夫婦の会話みたいじゃないか…)「さて、行くか」今の自分の考えを振り切るように航は声に出すと、エレベーターホールへ向かって歩き始めた—―**** その後、朱莉は洗濯を回しながら、食器の後片付け、部屋の掃除に洗濯干しと休まず動き続けた。そして一通り家事が終わると、出掛ける準備を始めた。これから絵葉書の投函と、食事の買い出しに行く為である。「あ、その前に……」朱莉は翔との連絡用のスマホを取ると、メッセージを送った。それは昨夜朱莉が寝る前に考えていた事である。明日香の子供を連れて億ションに戻った場合、京極に見られてしまう可能性があること。京極は勘が鋭い男なので朱莉が産んだ子供ではないことを見抜かれてしまう可能性がある
朱莉がスーパーで買い物をしている時、翔からメッセージが入ってきた。「え? もうこんなに早く返信してくれたの?」(何て書いて来たんだろう……)朱莉はレジかごを持って、隅の方に移動するとドキドキしながらスマホをタップした。『元気にしていたかい? 明日香は今アメリカで快適に過ごしているよ。体調も良さそうで安心している。ところでメッセージについてだけど、あいにく君が今住んでいる億ションを手放す訳にはいかないんだ。あの部屋は購入したもので、将来俺と明日香と子供の3人で住むことに決めている。だからそれまでは朱莉さんが住んで、あの部屋の状態を維持しておいて貰いたい。悪いが引っ越しの件は諦めてくれ。京極の話だけど、朱莉さんの子供ではないと本当に彼にバレてしまうのだろうか? 俺はそうは思わないけど。もし怪しまれたらその時は何とかうまい言い訳をしてくれないか? 無茶な事を言っているのは分かっているが、朱莉さんにしか出来ないことなんだ。悪いけどよろしく頼む』「……」朱莉はそのメッセージを絶望的な気持ちで見つめていた。多分別のマンションに移り住む許可は得られないのでは無いかと思っていたが……翔自身にはそのつもりは全く無いのだろうが、朱莉の心を傷つけるには十分すぎる内容で訴えは無駄に終わってしまった。「ふ……」朱莉は手で自分の口元を押さえた。思わず目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになるのを必死で我慢する。翔のことを好きで無ければこんなにも心を傷つけられることは無いのに。悲しいことに朱莉は自分の命を救ってくれた翔に対する恋心を未だに捨てきれずにいた。(もう嫌だ……。いっそ、翔先輩を嫌いになれればいいのに……。いつまでも未練がましい、こんな自分が一番嫌い……)スーパーの隅で朱莉は必死で涙が出そうになるのを堪えるのだった—―****「ただいま〜」19時――航が玄関のドアを開けて帰宅した。「お帰りなさい」エプロンを付けた朱莉が笑顔で玄関まで迎えにやって来た。「ただいま。あのさ……じ、実は日頃朱莉には色々世話になってるから今日は朱莉にお土産を買って来たんだ」航はテレ臭そうに頭を掻く。「え? お土産?」「あ、ああ。これなんだけどさ……」航が差し出してきたのは紫芋タルトの入った紙袋だった。「2人で一緒に食べようかなって思ってさ。朱莉は甘い物好きか?」「うん、
風呂から上がった航がキッチンへ行くと、丁度朱莉が食事をテーブルの上に並べている所だった。「あ、航君。もう食事にしよう、座って?」「ああ」朱莉に促され、航は席に着く。食卓に並べられたのはメインの酢豚に、ご飯、豆腐とわかめの味噌汁、青梗菜とエビの中華炒め、そして春雨サラダである。「へえ~今夜の料理は酢豚か……旨そうだな」「そう? ありがとう。ほら、航君は暑い中、外でお仕事して疲れているでしょう?」「あ、ああ……。そうだな。」「だから疲労回復に酢豚がいいかなって思って。よくお酢や豚肉は疲労回復に良いって言われてるから」「朱莉……俺のことを気遣って……」航は感動のあまり言葉に詰まってしまった。(いつもこんなに親切にされたら……俺、本当に勘違いしてしまうじゃないか。お前が俺のことを……)だが、実際はそんなことはあり得ないのは航はよく分かっていた。所詮自分は朱莉に取って弟のような存在でしか見られていないのだ。「ねえ、航君。ビールは今飲む?」「いや、後でいい。今は朱莉の手料理を味わいたいからな」いつの間にか航は朱莉に対する心境の変化により、素直な気持ちで話せるようになっていた。そして朱莉がこちらをぽかんとした目で見ていることに気が付いた。「どうした? 朱莉」すると朱莉は頬を赤く染めた。「うううん、今航君が……私の手料理を味わいたいって言ってくれたことが嬉しくて」(か、可愛い……)朱莉の言葉は最後の方は途切れてしまったが、朱莉の照れる姿を見た航は不覚にも見惚れてしまった。**** 食事が済んで朱莉が後片付けをしている間、航はリビングでPCを前に今迄カメラに収めて来た画像の整理をしていた。「航君」不意に名前を呼ばれて航は顔を上げた。「何だ?」「私もお風呂に入って来るから、もしビールを飲むなら自由に冷蔵庫から開けて飲んで構わないからね」「ああ。分かった。ありがとう」航が言うと、朱莉は笑みを浮かべてバスルームへ向った。「ふう~……」航は上を向いて、首をコキコキと鳴らした。「ビール……貰うか」 航が缶ビールを飲んでいると朱莉がお風呂から上がって来た。「朱莉、ビール貰ってるぞ」「うん、いいよ。自由に飲んでね」そして朱莉は何故かリビングに来ると航の前に座った。「な、何だよ……」突然自分の前に座って来た朱莉に押され気味
航は暫く朱莉のスマホが鳴り続けるのを無言で見つめていた。本音を言えば、この電話に出て文句の一つや二つ言ってやりたい。だが、もし自分がこの電話に出たら?朱莉がひょっとすると男と浮気をしているかもしれないと疑われてしまう。契約違反だと言われて違約金を払わされでもしたら? 住む場所を追い出されてしまったらどうする?色々と悪い考えばかりが航の頭の中に浮かんでくる。だから航は電話に出たい気持ちを耐えた。翔に文句を言ってやりたい衝動を堪えるしかなかった。やがて、電話の音は鳴りやみ、航は溜息をつくと朱莉のスマホを手に取った。悪いとは思いつつ、朱莉の涙の訳が、今まで航の知る限り一度も電話を掛けてきたことが無かった翔が何故突然電話を掛けてきたのか、航はその理由が知りたかった。 朱莉はテーブルの上に突っ伏したまま眠っている。「ごめん、朱莉。スマホの中……見せてもらうな」航は眠っている朱莉に断りを入れるとスマホをタップした。ひょっとするとロックがかかっているのでは無いかと思ったが、その心配は皆無だった。航はメールをタップしてメッセージを表示させた。それは本日翔が朱莉にあてて送って来たメッセージだった。読み進めていき、徐々に航の顔が険しさを増していく。最後まで読み終えた時には翔に対する激しい怒りで一杯だった。(くそ……っ! 一体この内容は何なんだ? 自分達のことしか考えていないじゃないか! 朱莉の気持ちを考えたことがあるのか!? こんな横暴な男は今まで見たことが無い! 朱莉が助けを求めているってことに気が付いていないのか? 面倒なことは全て朱莉に……こんなひ弱な朱莉に丸投げじゃないか!)航は深呼吸をして気持ち落ち着かせると、朱莉が翔に送ったメッセージを表示させた。その内容を読み……航の顔には悲しみが宿った。朱莉がとても困っていることが、悩んでいることがこのメッセージからひしひしと感じられた。(朱莉はどうやら京極のことで困っているようだな……。だったら尚のこと、この俺に相談してくれればいいのに……俺だったら……)そこまで考えて航は思った。(俺だったら? 本当に朱莉の力になれるのか? 何せ相手は億ションに住むような男だ。それに朱莉が書いたポストカードによると京極に恩義があるようだ。だから朱莉は京極の存在を無下にする事が出来ないのか……?)「もっと早く朱莉と俺
「おはよう、航君……って何? 一体どうしたの? 何だか顔色が良くないけど?」航は何だか疲れ切った顔をしている。「ああ、おはよう。朱莉」返事をする声も何所か元気が無い。「ねえ……航君。もしかして何所か具合でも悪いの?」「い、いや……。ちょっと寝不足なだけだから」航は無理に作り笑いをする。(くそ……! あんなメッセージを読んでおちおち寝ていられるか)昨夜はずっとベッドの中で、どうすれば朱莉の手助けをしてあげる事が出来るのか、ずっと考え……結局何も良い考えが浮かばないまま夜が明けてしまったのだ。寝不足で頭がぼんやりするが、今日は尾行をして、浮気の決定的現場の動画を撮影してこなくてはならない。一番憂鬱な仕事をしなければならないのだ。だが、これさえ済めば……。航は朱莉の顔をチラリと見た。「なあ、朱莉」「うん。何?」「あの……さ、今日の仕事が無事終了すれば、もう後は殆ど楽な仕事しか残っていないんだ。だから……明日からは俺も時間の融通が利くようになるから……」航は中々要件を切り出す事が出来ない。すると朱莉が言った。「そっか。それじゃ明日からは少しはゆっくり過ごす時間が取れるってことなんだね?」「そう、それだ! 朱莉、俺が言いたかったのはまさにその事なんだよ!」航は力を込めて笑顔になる。「それなら明日からは好きなだけ、この部屋でゆっくりしていればいいよ。もし1人の時間が欲しいなら、私は何所かに出かけていてもいいから」(この際だから、一度行ってみたいと思っていた美ら海水族館に行ってみようかな?)「い、いや、朱莉! そうじゃなくて、俺は朱莉と……その、沖縄の色んな場所へ遊びに行ってみたいなって思って……」航はそこで言葉を切った。「朱莉……?」朱莉は俯いて、目を擦っている。「朱莉!? 泣いてるのか? 俺……何かまずいこと言ってしまったか!?」航はすっかり焦ってしまった。自分の今言った台詞の何が朱莉を泣かせてしまったのか全く見当がつかなかったからだ。すると朱莉は目を擦りながら航を見上げるとニッコリ笑った。「うううん、違う。そうじゃないの……嬉しくて……」「え?」「私、沖縄に来てからずっと孤独で……翔さんには親しい人を作るなって言われていたし。だからなるべく出歩かないように過ごしていて……でも、本当は沖縄の色々な場所に行ってみたいって
寝不足ではあったが、明日からの仕事を楽にして朱莉と2人で沖縄観光をする為に航は仕事を頑張った。対象者を尾行し続け、ついに浮気の決定的瞬間を動画に収めることに成功したのだ。カメラをリュックにしまう航の顔には笑みが浮かんでいる。「よし、この証拠映像があれば依頼主は確実に有利な条件で離婚することが出来るだろう」小さく呟くと、周辺を伺いながら身を隠していた茂みの中から出てきた。空を見上げると大分太陽は西に沈み、沖縄の空がオレンジ色に変化している。「さて、帰るか」航はリュックの中に機材をしまうとその場を後にした——**** 朱莉は家で夜ご飯の準備をしていた。今日のメニューはキーマカレー。今朝の航は元気が無かった。ひょっとすると夏バテをしているのでは無いかと朱莉は思い、ネットで夏バテに効く料理が無いか調べた所、辛みのある料理が良いと書かれていたのだ。(航君は好き嫌いが無いって言ってたから、きっとこれも食べられるよね)フライパンで煮込んでいる間にサラダの準備をしていた時。朱莉の個人用スマホに着信を知らせるメッセージが入って来た。(誰からだろう? 航君かな?)朱莉はスマホを手に取り、その着信相手を見て驚きのあまりスマホを取り落しそうになった。相手は何と京極からである。(京極さん……ど、どうして……? 絵葉書は昨日投函したばかりだから届いているはずは無いし……)しかし、相手は何と言ってもあの京極である。朱莉は緊張しながらスマホをタップしてメッセージを表示させた。『こんにちは、朱莉さん。沖縄の暮らしはどうですか? 海に行って日焼けとかはしていませんか? ビッグニュースがあります。今はまだ言えませんが、待っていて下さいね』メッセージの内容はたったこれだけである。「ビッグニュース……待っていて下さい……?」朱莉はメッセージを読み返した。(京極さん……こんな意味深な書き方をされると不安な気持ちになってしまいます……)朱莉は溜息をついた。きっと今メールでビッグニュースとは何かを尋ねても、あの京極の事。はぐらかして答えてはくれないだろう。朱莉はすぐに返信をすることにした。『はい、お待ちしています』それだけ書いて、メッセージを送信した。それ以外に何を書けばよいのか朱莉には見当がつかなかった……。****18時半――「ただいま! 朱莉!」航が上機嫌
朱莉と航は向かい合わせで食事をしていた。航はキーマカレーが余程気に入ったのか、既に2杯目を食べている。「朱莉。明日だけど何時にここを出ようか?」「私は別に何時でも構わないよ。でも、出来ればゆっくり水族館の中を見たいな。あ、あのね……航君笑わないで聞いてくれる?」朱莉は恥ずかしそうに俯くた。「何だ? 遠慮せずに言えよ。別に笑ったりしないから」「本当? それじゃ言うけど……実は私この年になっても、まだ一度も水族館て行った事が無いんだ」「え? そうなのか? それじゃ俺と明日行くのが初めてなのか?」それを聞いた航は自分が情けないほど、口元が緩んでしまった。「あ……やっぱり笑ってる?」朱莉が上目遣いで航を見た。「い、いや。違うって。そうじゃないんだ。ただ……朱莉の初めての相手が俺だってことが嬉しくて……」航は言いかけて、途中でとんでもない発言をしてしまったことに気が付いた。(し、しまった……! マ、マズイ。今の言い方、捕らえようによっては……俺、恐ろしいことを口走ってしまったぞ!)恐る恐る朱莉を見る。けれど朱莉は何を考えているのか、美味しそうにキーマカレーを食べ続けている。(よ、良かった……朱莉が極端に鈍い女のお陰で助かった……)航は心の中で安堵し、明日のスケジュールを頭の中で考えた。美ら海水族館の開始時間は8:30からである。(開始時間に合わせていくと6時には出た方がいいかもしれないけど、それだと早すぎだからな……)「よし、朱莉。明日は9時に出よう。ちょっと出るには遅い時間かもしれないが、別に明日は水族館だけ行けばいい話だからな。他の場所はまた翌日に行こう」「うん」航の言葉に朱莉は笑みを浮かべて頷いた——**** そして、日付が変わって翌日の朝――夜の内に洗濯を済ませておいた朱莉はベランダに洗濯物を干していると、航が部屋から出てきた。「おはよう、航君。サンドイッチを作ったから一緒に食べよう」「ええ!? 忙しくなかったか? 朝っぱらからサンドイッチを作るなんて」「そんなこと無いよ。意外と簡単なんだから。さ、食べよ」朱莉が用意したサンドイッチは卵サンドに、ハムレタスサンド、そしてツナサンドだった。そしてそれを野菜ジュースと一緒に食べる。「うん、朱莉は本当に料理が上手だよな」航はサンドイッチを口にしながら朱莉を見つ
「あの……今日はどちらへ行かれるつもりですか?」すると京極は前を見ながら言った。「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジには行かれたことはありますか?」「いいえ。それに初めて聞きます」それを聞くと京極は満足そうに笑みを浮かべる。「そうなんですね? 良かった……もう彼と出かけたことがあるのではと思っていたので」「……」朱莉はへんじが出来なかった。(京極さんの言う彼って……きっと航君のことなんだろうな……)「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジってどんなところなんですか?」「そこはアメリカの雰囲気をまねた商業施設ですよ。ショッピング、グルメ……まさにエンターテインメントの場所です。気に入っていただければいいのですが」「そうですか……。ところでこの車はレンタルですか?」すると京極の口から意外な言葉が飛び出してきた。「いえ、これは僕の車ですよ」「え!?」朱莉は予想外の京極の返事に驚き、思わず運転席に座る京極を見つめた。「あ、あの……それっていったいどういう意味……ですか?」「そのことも含めて美浜アメリカンビレッジに到着したらお話ししますよ」「京極さん……」(何故ですか……? 何故京極さんはいつもいつも肝心な事を話してくれないのですか……?)朱莉のそんな不安をよそに、京極が尋ねてきた。「安西君はどうしているのですか?」「航君は家で仕事をしています」「そうですか。確か彼は興信所で働く調査員と言っていましたね。ひょっとすると彼は僕のことも色々と既に調べているのではないですか?」京極の的を得たような台詞に朱莉はドキリとした。「さ、さあ……。私は何も聞かされていませんし、聞きもしませんので……」朱莉は心の動揺を悟られないように答える。「……そうですか」京極は少しの間をあけると続けた。「僕は朱莉さんの言うことなら何でも信じますよ」京極は朱莉の方を向いて笑顔で答えるが、逆にそれは朱莉の不安を掻き立てた。「京極さん……私は……」「朱莉さん」「は、はい」「沖縄で辛い目に遭ってるのでは無いかとずっと心配していました。でも思っていたよりもずっと元気そうで……いえ、むしろ東京に住んでいた時よりもイキイキとして見えて安心しました。これも全て彼のお陰なんでしょうね?」「そ、それは……」「あ、見えてきました。あれが美浜タウンリゾ
翌朝——「本当はついて行ってやりたいけど、多分京極はそれを許さないと思うから……。本当に悪い……」玄関を出ようとした朱莉に航は辛い気持ちで声をかけた。「航君。京極さんはね、すごくいい人なんだよ? 私が手放さなくてはならなくなってしまった犬を引き取ってくれたし、羽田空港まで送ってくれたりしたんだよ ?だから大丈夫だよ」朱莉は心配をかけたくなくて笑顔で言うも、ショルダーバッグを握りしめる朱莉の手が小刻みに震えているのを航は見逃さなかった。(朱莉……!)その様子があまりにいじらしくなり、航はとうとう我慢が出来ず、小刻みに震えている朱莉の手を握りしめた。「朱莉……! 何かあったらすぐに俺に電話しろよ!? 助けが必要ならどんなところに朱莉がいたって駆けつけるから!」「大丈夫だってば。そんなに心配しないで? 今日はお父さんに定期報告をする日なんでしょう?」朱莉は笑顔で航に言う。「分かったよ……。だけど……これだけは約束してくれ」「約束?」「ああ……絶対にここに今日帰って来てくれよ? 俺、待ってるから……!」航は必死だった。実は航は最悪のことを考えていたのだ。朱莉の秘密を脅迫する為に京極は朱莉に関係を迫って来るのではないかと……。興信所の調査員という特殊な仕事をしてきた航はそのような男女トラブルの話を散々見てきたからだ。(あいつは紳士的に振る舞っているが何を考えているのか全く読めない……。くそ! 本当は朱莉に盗聴器を仕掛けてやりたいくらいだ……!)だが、航は調査員として働き、今の今まで盗聴器と言う非合法な手を使ってきたことは一度も無い。そのようなことをして、仮にばれてしまった場合は当然罪に問われるからだ。だが、今回はそれでも構わないから盗聴器を仕掛けたいと思う気持ちを必死に抑え、朱莉を見送ることに決めたのだ。「航君……本当に大丈夫だから。家に帰るときは電話するね?」航があまりにも心配するので、朱莉は笑顔で航の顔を見た。「あ、ああ……。分かったよ……」航は朱莉の手を離した。「それじゃ行ってくるね?」朱莉は手を振って玄関のドアを開ける。「……行ってらっしゃい、朱莉」航が寂し気に手を振る姿を見ながら朱莉は玄関のドアを閉めた――**** 朱莉がエントランスに到着すると、すでにそこには京極の姿があった。「おはようございます。朱莉さん
「ああ、そうだ。1人目のアイツは鳴海翔のことだ。そして2人目のアイツは京極正人の方だ。で、どっちのアイツから言われたんだ!?」航の真剣な様子とは裏腹に奇妙な言い回しのギャップがおかしくなり、朱莉は思わず笑ってしまった。「フフフ……」「な、何だ? 朱莉。急に笑い出したりして。とうとう悩みすぎて現実逃避でもしてしまったか!?」焦りまくる航の様子が更におかしくて、朱莉は笑った。「う、ううん。フフフ……そ、そうじゃないの。航君の様子が……お、面白くて、つ、つい……」「朱莉……?」(何だ? 今俺、そんなにおかしなこと言ってしまったか? 焦って妙なことでも口走ったか?)「ご、御免ね……。航君。航君は……フフッ。し、心配してくれているのに笑ったりして……」そして暫く朱莉は笑い続けていたが、その様子を航は黙って見ていた。(いいさ、俺の言動で朱莉を楽しい気持にさせられたなたら少しは朱莉の役にたててるってことだよな?)ようやく笑いが収まった朱莉は事情を説明した。「実はね、京極さんから電話がかかってきたの」「そうか、やはり電話の相手は京極のほうからだったのか。それでアイツは何て言ってきた?」そこまで言って、航はハッとなった。「ご、ごめん。朱莉のプライベートな話だったよな。口を挟むような真似をして悪かった」普段から仕事で個人情報を取り扱う機会が多い航は、咄嗟にそのことが頭に浮かんでしまった。「何で? そんなこと無いよ。むしろ……」朱莉はその時、突然航の左腕を掴んだ。「迷惑じゃないと思ってくれるなら……口……挟んで……?」「朱莉……」朱莉のその目は……航に助けを求めていた——****「あの京極って男に下手な嘘は通用しないぞ」今、航と朱莉は2人で向かい合わせにリビングのソファに座って話しをしていた。「そう……だよね……」「京極に限らず、恐らく他の誰もが嘘だと思うだろう。第一、子供を産む状況にしてはあまりにも不自然な点が多すぎる。本当に鳴海翔は何を考えているんだ? いや……恐らく、あの男は何も考えていないんだろうな。面倒なことは全て朱莉に丸投げしてるんだから。少しでも誠意のある男なら、色々な手を使って不測の事態が起こっても大丈夫なように根回しをするだろう。それなのに……」航は悔しくて膝の上で拳を握りしめている。「航君……」今迄朱莉はそん
その日の21時― 食事を終えて航がお風呂に入っている間、朱莉は後片付けをしていた。食器を洗っている時に、朱莉の個人用スマホに電話の着信を知らせる音楽が鳴り響く。(ひょっとして京極さん?)水道の水を止め、慌ててスマホを確認するとやはり相手は京極からだった。朱莉はバスルームをチラリと見たが、航が上がって来る気配は無い。緊張する面持ちで朱莉は電話に出た。「はい、もしもし……」緊張の為、朱莉の声が震えてしまう。『朱莉さんですね…』受話器越しから京極の声が聞こえる。「はい、そうです」『良かった……嫌がられてもう電話に出てくれないのでは無いかと思っていたので』京極から安堵のため息が漏れた。「いえ、そんなことは……それに明日会う約束をしていますから」『本当に僕と会ってくれるのですか?』「え?」(だって、京極さんから言い出したんですよね……? 一度約束したことを断るなんて……)「で、でも今日明日会う約束をしましたよね? だから断るなんてしません」朱莉は躊躇いながら返事をした。『人は……簡単に約束なんか破るものですよ』京極は何処か冷淡な、冷めた口調で言う。「え?」『あ、いえ……。朱莉さんに限って、そんなことはするような人じゃないのは分かっています。ただ……』京極はそこで一度言葉を切る。『彼は今、そこにいるのですか?』「彼? 航君のことですか? 今お風呂に入っていますよ」朱莉はバスルームに視線を移すと返事をした。『そうですか。それで明日なんですが、少し時間が早いかもしれませんが9時に会えませんか? 朱莉さんの住むマンションのエントランスで待ち合わせをしましょう』「9時ですね。分かりました」『ありがとうございます、朱莉さん。僕の願いを聞き入れてくれて』「ね、願いだなんて大袈裟ですよ」京極の大袈裟ともいえる発言に朱莉は思わず狼狽してしまった。『それではまた明日。おやすみなさい』「はい、おやすみなさい」それだけ言うと電話は切れた。「……」朱莉はスマホを握りしめたまま考えていた。(どうしよう……もう、私が妊娠していないってことは京極さんにバレてしまった。翔先輩には何とかうまい言い訳をして欲しいって言われたのに……)いっそ、もう子供は出産したと言ってしまおうか? 早産になってしまったので今生まれた赤ちゃんは病院の保育器
(え……? あ、朱莉……。それは……一体どういう意味なんだ!?)航は次の朱莉の台詞に期待しながら尋ねた。「あ、朱莉。何故俺だと楽しく感じるんだ?」「うん。それはね……航君だと気を遣わなくて済むって言うか、一緒にいて楽な人……だからかなあ?」「あ、朱莉……」(え……? こ、こういう場合俺はどう解釈するべきなんだ? 喜ぶべきなのか? それともがっくりするべきなのか? わ、分からねえ……やっぱり朱莉の気持ちが俺には分からねえ……)朱莉の発言に航は頭を抱えてしまうのだった—―****「残念だったな。あの水族館で食事出来なくて……」駐車場に向って歩きながら航が残念そうに言う。「うん。でも仕方が無いよ。だってあんなに大きな水槽を観ながら食事が出来るお店だよ? 誰だって行ってみたいと思うもの。でも、私は大丈夫。だってもう十分過ぎる位水族館を楽しんだから」朱莉は笑顔で答える。「また……きっといつか来れるさ」「そうだね。私は多分このまま明日香さんが赤ちゃんを産んで帰国する直前までは沖縄にいることになりそうだから」「朱莉…」朱莉の言葉に航は胸が詰まりそうになった。(そうだ……。俺は2週間後には東京へ帰らなくてはならない。いや、それどころか、大方依頼主の提示して来た証拠はもう殆ど手に入れたんだ。だからその気になれば明日東京に帰っても何の問題も無い……)だが、航は当初の予定通り3週間は沖縄に滞在しようと考えていた。それは朱莉を1人沖縄に置いておくのが心配だからだ。(いや、違うな。本当は俺が朱莉から離れたくないだけなんだ。朱莉にとって、俺は弟のような存在でしか無いのかもしれない。でも……それでもいいからギリギリまでは朱莉の側に……) 例え4カ月後に朱莉が東京に戻って来れたとしても、その時の朱莉は鳴海翔と明日香の間に出来た子供を育てていくことになるのだ。そうなると、もう航は子育てに追われる朱莉と会うことが叶わなくなるだろう。だから、それまでの間は出来るだけ東京行を引き延ばして、沖縄で朱莉との思い出を沢山作りたいと航は願っていた。「……」航は隣を歩く朱莉をチラリと見た。朱莉は周りの美しい風景を眺めながら歩いている。そんな朱莉を見ながら航は声をかけた。「よし、朱莉。それじゃちょっと遅くなったけど、何処かで飯食って行こう!」「うん、そうだね。何処で食
高速道路を使って2時間程車を走らせ、朱莉と航は美ら海水族館のある海洋博公園へと到着した。「朱莉、ほら行くぞ」駐車場を出ると航は後ろを歩く朱莉に振り向いて声をかけた。「うん」朱莉は人混みの間を縫うようにして航の隣にやって来た。「それにしてもすごい人混みだね。平日なのに」「ああ、そうだな。この間は水族館の中には入らなかったけど、まさかこんなに人が来ているとは思わなかった。もうすぐ夏休みだって言うのにこの人混みじゃ夏休みになったらもっと混むかもな」「うん。駐車場も結構混んでいたものね」「よし、それじゃ行くぞ。朱莉、はぐれないようにな」言いながら航は思った。(朱莉が彼女だったら、はぐれないように手を繋いで歩くことも出来るんだけどな……。しかし朱莉は書類上人妻だ。そんな真似出来るわけないか)等と考え事をしていたら、再び朱莉を見失ってしまった。「朱莉? 何所だ?」航はキョロキョロ辺りを見渡すと、航のスマホに着信が入ってきた。着信相手は朱莉からであった。「もしもし、朱莉? 今何所にいるんだ!?」『今ね1Fのエスカレーターの前にいるの』「エスカレーター前だな? よし、分かった! すぐ行くから朱莉、絶対にそこを動くなよ!」航は電話を切ると、急いで朱莉の元へと向かった。「朱莉!」「あ、航君」朱莉がほっとした表情を顔に浮かべた。「すまなかった、朱莉。まさか本当にはぐれてしまうとは思わなかった」「うううん、いいの。こんなに混んでいれば仕方ないよ。私、それにあんまり出歩かないから人混みに慣れていなくて」「だったら……」航はそこまで言いかけて、言葉を切った。(駄目だ……手を繋ごうか……なんてとても朱莉に言える訳ない)「どうしたの航君?」朱莉は不思議そうな顔で航を見た。「い、いや。それじゃ、なるべく壁側を歩くか」「うん、そうだね」そして2人は壁側を歩き、順番に展示コーナーを見て回ることにした。「うわあああ~すごーい」朱莉が目を見開いて、声を上げた。「ああ、本当にすごいな。水族館は何回か行ったことがあるけど、こんな巨大水槽を見るのは初めてだ」航も感心して見上げる。朱莉と航は今、巨大水槽『アクアルーム』で巨大ジンベイザメや巨大なマンタなどが泳ぐ姿を眺めている。それはまさに目を見張るような光景で、朱莉はすっかり見惚れていた。そん
「朱莉さん……」京極が顔を歪めた。「朱莉……」航は朱莉の悲しそうな顔を見て激しく後悔してしまった。(くそ! あいつに煽られてつい、言い過ぎてしまった)「ごめん、悪かったよ朱莉。俺のことは気にするな。2人で出掛けるといい。俺は邪魔するつもりはないからさ」航は無理に笑顔を作った。(そうさ。所詮俺がいくら朱莉のことを思っても朱莉にとっての俺は所詮弟なんだから。だったら京極の方が朱莉にお似合いだろう。あいつは地位も名誉もある。俺とは違う大人なんだから)「航君……。私は航君と出かけたい……よ? だって航君と一緒にいると楽しいし」朱莉が声を振り絞るように言う。「朱莉……」すると後ろで何を思って聞いていたのか、京極が声をかけてきた。「安西君。悪いですが、そこのコンビニの前で止まってくれませんか?」「何か買い物でもあるんですか?」「……」しかし京極は答えない。(チッ……! 無視かよっ!)「はい、着きましたよ」航はコンビニの駐車場に停めると京極に声をかけた。「ああ、ありがとう。それじゃ、俺はここで降ります。あなた達だけで行って下さい」京極の口から思いがけない言葉が飛び出してきた。「え?」航は驚いて京極を振り返った。「京極さん?」朱莉も驚いている。「すみませんでした。安西君。朱莉さん。無理矢理ついて来てしまって。朱莉さんの気持ちも考えず、本当にすみません」京極は頭を下げると、車を降りた。「京極さん! あ、あの……私……」朱莉が声を掛けると、京極は寂し気に笑みを浮かべる。「朱莉さん……明日は……いえ、お願いです。明日は僕に時間を頂けませんか?」「あ……」(どうしよう……航君……)朱莉は助けを求めるように航を見た。すると航は肩をすくめる。「いいんじゃないか? 朱莉。京極さんと会えば。俺は明日仕事があるからさ」(え? でも、もう殆ど仕事は終わったって言ってたじゃない?)しかし、朱莉は気が付いた。それは航の気遣いから出た言葉だと言うことに。「分かりました。明日大丈夫です」「そうですか、ありがとうございます。それでは何所へ行くかは知りませんが、楽しんできてください」京極は笑顔で言うと車から頭を下げてコンビニへ向かって歩いて行った。その後ろ姿を見届けると航は言った。「朱莉、行こうか?」「うん……行こう」そして航は
車内はしんと静まり返り、一種異様な雰囲気を醸し出していた。誰もが無言で座り、口を開く者は1人もいない。(くそっ! こんな空気になったのも……全ては何もかもあの京極のせいだ……)航はイライラしながらバックミラーで京極の様子を確認すると、彼は何を考えているのか頬杖を突いて、黙って窓の外を見ている。(本当に得体の知れない男だ。こんなことになるなら、あいつのことももっと調べておくべきだったな)その時ふと隣から視線を感じ、チラリと助手席を見ると朱莉が心配そうな顔で航を見つめていた。その瞳は不安げに揺れていた。(朱莉……そんな心配そうな目で見るな。安心しろ、俺が何とかしてやるから)心の中で航は朱莉に語りかけると言った。「朱莉、車内に何かCDでも積んであるか? もしあるなら車内で聞こうぜ」「え、えっとね……。それじゃ映画のテーマソング集のCDがあるんだけど……それでもいい?」「ああ、勿論だ。何てったって、この車は朱莉の車だからな」航は笑顔で言いながら、チラリとバックミラーで京極の顔を見ると、不機嫌そうな顔で腕組みをして前を向いていた。「これ……なんだけど。かけてもいい?」「ああ、いいぞ。それじゃ入れてくれるか?」航の言葉に朱莉は頷くと、CDを入れた。すると美しい女性の英語の歌声が流れてくる。「ふ~ん……初めて聴くけどいい歌だな。これも映画の歌なのか?」するとそれまで黙っていた京極が口を開いた。「朱莉さん、この映画は『オンリーワン』というハリウッドの恋愛映画ですね。この映画、朱莉さんも観たんですか?」「え、ええ……あの、テレビで夜中に放送した時に録画して観たんです」朱莉は躊躇いがちに答えた。すると京極は続ける。「前回は一緒に映画の試写会へ行くことが出来なくて残念でした。でも朱莉さん、また試写会のチケットは貰えるので、今度手に入ったらその時こそ御一緒して下さいね」「は、はあ……」朱莉は曖昧に返事をした。京極はにこやかに話しかけてくるが、朱莉は内心ハラハラして仕方が無かった。何故、京極は前回朱莉が行くことが出来なかった試写会の話を今、しかもよりにもよって何故航の前でするのだろうか?朱莉は恐る恐る航を見ると、航は何を考えているのか無言でハンドルを握りしめ、前を向いて運転している。(航君……)朱莉にとってはまさに針のむしろ状態だ。しかし
「は、はい……すみません……」項垂れる朱莉に航は声をかけた。「朱莉、別に謝る必要は無いぜ」「! また君は……っ!」京極は敵意の込めた目で航を見た。「ところで京極さん。そろそろいいですか? 俺と朱莉はこれから2人で出掛けるんですよ。話ならメールでお願いしますよ。それじゃ、行こう。朱莉」航が朱莉を手招きしたので、朱莉は京極の方を振り向くと頭を下げた。「すみません。京極さん……。何故沖縄にいらっしゃるのかは分かりませんが、また後程お願いします」そして朱莉は航の方へ歩いて行こうとしたとき、京極に右腕を掴まれた。「!」朱莉は驚いて京極を見た。「朱莉さん……待って下さい」「朱莉!」航は朱莉の名を呼ぶと京極を睨んだ。「……朱莉を離せ」「……」それでも京極は朱莉の右腕を掴んだまま離さない。「あ、あの……京極さん。離していただけますか?」「嫌です」京極は即答した。「え?」朱莉は耳を疑った。「僕も一緒に行きます。いえ、行かせて下さい」「な、何を……っ!」航は京極を睨み付けた。「朱莉さん、お願いです……。僕もついて行く許可を下さい……」その声は……どこか苦し気だった。「あ、あの……私は……」朱莉にはどうしたら良いのか判断が出来ず、助けを求めるように航を見つめた。(朱莉は今すごく困ってる。俺に助けを求めているんだ……! きっと朱莉の性格では京極を断り切れないに決まってる。だったら俺が決めないと……)「……分かりましたよ。そんなについてきたいなら好きにしてください」航は溜息をついた。「……何故、君が判断をするんですか?」京極はどことなくイラついた様子で航に言う。するとすかさず朱莉が答えた。「わ、私は……航君の意見を優先します」「朱莉さん……」京極は未だに朱莉の右腕を掴んだまま、何所か悲しそうな目で朱莉を見つめた。「……もういいでしょう? 貴方は俺達と一緒に出掛けることになったんだから朱莉の手を離してくれませんか?」航は静かだが、怒りを込めた目で京極を見た。「分かりました、離しますよ」そして朱莉から手を離すと京極は謝罪してきた。「すみません。朱莉さん。手荒な真似をしてしまったようで」「いえ……別に痛くはありませんでしたから」朱莉は俯きながら答えた。そんな様子の朱莉を見て、航は声をかけた。「朱莉、助手席に乗